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仙台高等裁判所 昭和44年(ネ)321号 判決

控訴人(附帯被控訴人) 月舘町

右代表者・町長 半沢栄一郎

右訴訟代理人弁護士 今井吉之

被控訴人(附帯控訴人) 熊坂六之助

右訴訟代理人弁護士 安田純治

同 大学一

主文

本件控訴及び附帯控訴は、いずれもこれを棄却する。

控訴費用は控訴人の負担とし、附帯控訴費用は附帯控訴人の負担とする。

事実

控訴代理人(附帯被控訴代理人、以下単に控訴代理人という。)は「原判決を次のとおり変更する。別紙図面表示の(イ)、(ロ)、(ハ)、(ニ)、(ホ)、(ヘ)、(ト)、(チ)、(リ)、(ヌ)、(ル)、(ヲ)、(ワ)、(カ)、(イ)の各点を順次直線で結んだ線内の地域が控訴人の所有であることを確認する。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。」との判決及び附帯控訴棄却の判決を求め、被控訴代理人(附帯控訴代理人、以下単に被控訴代理人という。)は、控訴棄却の判決及び「原判決中被控訴人敗訴の部分を取り消す。控訴人の請求を棄却する。訴訟費用は第一、二審とも控訴人の負担とする。」との判決を求めた。

≪以下事実省略≫

理由

一、係争地の特定及び近隣の状況、

(一)、争いのない事実、

(イ)、控訴人の前身(即ち町制施行前)たる小手川村が大正二年三月一〇日月舘町大字御代田字上関六番宅地四三六・三六平方メートル(登記簿上の面積一三二坪、以下本件宅地という)を、その地に祀ってある愛宕神社と共に、その所有者である訴外菅野由次郎から寄贈されて所有権を取得し、その後、小手川村が月舘町となるに及んで、控訴人月舘町がこれを承継取得したこと。

(ロ)、被控訴人が同所八三番の三山林二七一・〇七平方メートル(登記簿上の面積二畝二二歩、以下本件山林という)を所有していること。

(ハ)  本件宅地の西側と本件山林の東側とが境を接し、本件宅地の南側、東側、北側がそれぞれ訴外羽賀茂吉所有の同所七六番の二山林、控訴人所有の七七番山林、八〇番の一山林と隣接していること。

(ニ)  係争地が別紙図面表示の(イ)、(ロ)、(ハ)、(ニ)、(ホ)、(ヘ)、(ト)、(チ)、(リ)、(ヌ)、(ル)、(オ)、(カ)、(ワ)、(イ)の各点を順次直線で結んだ線内の地域であり、(イ)、(ロ)、(ハ)、(ニ)、(ホ)、(ヘ)、(ト)の各点を順次直線で結んだ線以西の地域が本件山林に属し、(チ)、(リ)の各点を直線で結んだ線の北東地域、及び、(リ)、(ヌ)、(ル)、(オ)の各点を順次直線で結んだ線の概ね東側地域、並びに、(オ)、(カ)の各点を直線で結んだ線の北東地域が本件宅地に属すること。 は当事者間に争いがなく、そして、≪証拠省略≫に照らすと、前記由次郎が本件宅地を寄贈したのは、係争地の傾斜面に建っていた昭忠碑を中央(東方)に移したのを機として永く戦没将士を顕彰しようとしたためであり、小手川村が町制施行により控訴人月舘町となったのが昭和三年一月一日であること、また、前示図面表示の(カ)、(ワ)、(イ)の各点を順次直線で結んだ線の北東側地域が控訴人所有の前記八〇番の一山林であり、(ト)点の概ね南東側地域が訴外羽賀茂吉所有の前記七六番の二山林であることが認められ、右認定に反する証拠はない。

(二)、係争地附近の状況、

(イ)、現況

≪証拠省略≫に照らすと、

(1)、係争地は、四面を概ね急斜面で囲まれた丘陵(愛宕山という)の頂上に位する平坦地部分の西側の一部と、それに接続する西側の斜面地域である。

(2) 平坦地部分は、そこに祀られている愛宕神社の境内となっており(以下この平坦地部分を境内地という)、境内地には、前示図面に表示されているごとく、社殿(東南向き)、昭忠碑(東々南向き、明治四三年一一月三日付の碑文あり)、観音堂(北々東向き)が建てられ、表参道(石段)、裏参道(巾員約一五センチ)が設けられている。

(3)、境内地の西端は、前示図面表示の(チ)、(リ)、(タ)、(ヨ)、(カ)の各点を順次直線で結んだ線であり、その線以東は平坦地であり、その線以西は雑木、雑草、笹などの密生する東高西低の二〇度ないし二五度程度の急斜面である。従って、係争地のうち前示図面表示の(リ)、(ヌ)、(ル)、(オ)、(カ)、(ヨ)、(タ)、(リ)の各点を順次直線で結んだ線内の地域は境内地の一部をなし、その余の地域は斜面である。

境内地の南端は、表参道を除き、その一部が高さ約二ないし三メートルの崖上に達し、その余は北高南低の急斜面に接し、右の崖下には巾員約一メートルの小路らしき平坦地がある。

境内地の東端は、その一部が前示図面表示のごとく高さ約一〇メートルの崖上(その崖は採石により生じたもの)に達し、その余は西高東低の急斜面に達し、右の崖下には狭い平坦地がある。

境内地の北端は、南高北低の急斜面に接している。

(4) 前示図面表示の(ヌ)、(ル)の各点にはそれぞれ目通り直径約三〇センチの杉立木一本が存し、(オ)点は社殿の床下の北西地点であって、そこには伐根(樹種不詳)があり、(カ)点は(イ)、(ワ)点を直線で結んだ線を南々東へ延長した線と境内地の端が交差する地点であり、(ワ)点には目通り直径約七〇センチの楢立木一本が存し、(イ)、(ロ)、(ハ)(ニ)、(ホ)、(ヘ)の各点にはそれぞれ直径約五センチの丸太杭が打たれており、(ト)点には目通り直径約五〇センチの松立木一本が存し、(チ)、(リ)の各点にはそれぞれ大石が存在する。

そして、(イ)、(ロ)、(ハ)、(ニ)、(ホ)、(ヘ)、(ト)の各点を直線で結んだ線上には巾員約三〇センチの帯状の平坦地があり、その平坦地の東側(即ち境内地との間)及び西側は共に東高西低の急斜面であるが、両斜面に密生する雑木の林相、樹令には相違点が認められない。

(5)、実測面積は(但し、旧尺貫法の合以下は切捨)、

境内地が六〇一・六五平方メートル(一八二坪)、

係争地のうち斜面地域(平坦地部分を除外した地域)が二八〇・九九平方メートル(八五坪)、

係争地を除外した本件山林が六〇四・九五平方メートル(一八三坪)、であり、従って、係争地を含めた場合の本件宅地は八八二・六四平方メートル(二六七坪)、係争地のうち斜面地域を含めた場合の本件山林は八八五・九五平方メートル(二六八坪)である。

ことが認められ、右認定を覆えすに足りる証拠はない。

(ロ)、寄贈(大正二年三月一〇日)前後の状況、

≪証拠省略≫を総合すると、

(1)、現在の境内地は、明治四三年頃昭忠碑を現地点に移築するに当り、それまではかなり狭く、且つ、凸凹の著しかった旧境内を平坦地に整地すると共に地域を拡張して造成されたものである。即ち、従前の昭忠碑は旧境内の西側傾斜面に、また、社殿は現在の昭忠碑の台座の南東附近の高地に、そして、観音堂も現地点よりかなり東寄りの地点にそれぞれ建てられていて、現在の裏参道も設けられていなかったのであるが、明治四三年頃昭忠碑を現地点に移すに当り、大衆の踊り場所を拡大する意図もあって、旧境内を平坦化すると共に西側及び南側の傾斜面を埋立て(その結果、従前昭忠碑の建っていた傾斜面も平坦地となった)、もって、現境内地にほぼ近い程度に造地したうえ、社殿及び観音堂をそれぞれ現地点に遷座したものである(そのために社殿の床下に伐根がある)。

(2)、旧境内の拡張工事により埋立てられた部分は、西側と南側の斜面であるが、特に埋立ての著しかった西側斜面は巾員約三・五メートル余(二間余)に亘って平坦地が造成されて境内地となり、斜面地域も従前のそれに比して一段と急勾配を呈するに至った。

ことが認められ(る)。≪証拠判断省略≫

二、係争地所有権(但し、時効取得を除く)の帰趨、

(一)  地形(いわゆる段境)について、

前示図面表示の(イ)、(ロ)、(ハ)、(ニ)、(ホ)、(ヘ)、(ト)の各点を順次直線で結んだ線上に巾員約三〇センチの帯状の平坦地があることは前記一の(二)、(イ)、(4)において認定したとおりであるが、≪証拠省略≫に徴すれば、右の平坦地は、往昔小柳川宗重が前記丘陵(愛宕山)に物見の出舘を築いた際、出舘の東側と西側の各斜面の中腹に設けた郭帯(通称犬走り)のうち西側の郭帯跡と推認するにかたくないところであり、≪証拠省略≫中昭和五、六年当時の平坦地が存在しなかった旨の証言は、昔から右の平坦地が存在していた旨の≪証拠省略≫に照らして信用しがたく、ほかに右推認を覆えすに足りる証拠のないところ、≪証拠省略≫中には、右の平坦地を目して所謂段境と称し、それが本件宅地と本件山林との境界である旨の供述記載及び証言があるが、同時に、それらの供述及び証言は、いずれも噂(風聞)、或いは独自の地形判断にもとづくものであることが認められるところであって、合理的な根拠に乏しく、客観性を欠いているので、たやすく信用するわけにはいかない。そして、控訴人の全立証に照らしても、所謂段境と唱えるものがこの地方における一般的な自然的境界標識と認めるに足りる的確な証拠がなく、また、右の郭帯と愛宕神社境内との史的関連も知るに由なきものであるから、この点に関する控訴人の主張は採用することができない。

却って、≪証拠省略≫を対照してみると、明治一一年頃における本件宅地と本件山林との境界は、両者の地形に鑑みて、概ね前示図面表示の(チ)、(リ)、(ヌ)、(ル)、(オ)、(カ)の各点を順次直線で結んだ線と見受けられるのである。

(二)  土地丈量と実測面積について、

(イ)  崖地処分規則(地租改正事務局明治一〇年二月八日別報第六九号)第一条に「凡ソ甲乙両地ノ中間ニ在ル崖地ハ上層ノ所属トスベシ其従来ヨリ下底所属ノ確認アルモノハ旧慣ノ侭ニ据置クヘシ」、第三条に「従来ヨリ崖地半腹ヲ以テ境界トセルモノハ上条ニ照準シ実況ニ応シ各個ニ処分スヘシ」と規定されていることは控訴人の主張するとおりである。けれども、係争地の斜面部分の現況は、雑木、雑草、笹などの密生する二〇度ないし二五度の勾配であり、しかも、明治四三年頃の埋立工事以前においては、それが一段と緩やかな傾斜面であったことは前記一の(二)、(イ)、(3)及び(ロ)、(2)において認定したとおりであるから、社会通念に照らし、前示規則制定当時においては固より現状においても、この程度の傾斜をもって崖地とは認めがたく、従って、本件には右法条の適用がないものと解するを相当とすべく、右の傾斜面が崖地であることを前提とする控訴人の主張は採用することができない。

次に、控訴人は、地租改正の際、社寺境内は従前の坪数にかかわらず祭典用必需の場所を区画して新境内と定められたものであるから、本件境内地は平坦地一三二坪だけではなく、段境の上層全部が境内として認められたものであると主張し、その主張が、社寺境内外区画取調規則(前示同局明治八年六月二九日達乙第四号((改正同年一〇月一五日達乙第六号)))第一条「社寺境内之儀ハ祭典法用ニ必需之場所ヲ区画シ更ニ新境内ト定其餘悉皆上地之積取調ヘキ事・但郷村社以上民有ノ社地ハ渾而本条ニ倣イ境内ヲ定メ其他民有ノ社寺ハ従前ノ通可心得事」との社寺境内外区画取調処分の取扱心得を示した規定にもとづくことは、控訴人引用の文献(司法研究報告書第一三輯第四号四六頁)に照らして明らかなところ、同条但書に照らすと、右規則が制定された当時由次郎の私有に属していた愛宕神社の境内(由次郎がこれを寄贈したのが大正二年三月一〇日であることは前記一の(一)、(イ)に述べたとおりである)は従前のとおりに取扱われることとなっているので、同条本文を適用する余地がないのみならず、同条本文の趣旨は、狭隘な境内しか有しない社寺に対し祭典法用に必要な地域を与えると言う趣旨のものではなく、規則制定当時において社寺が従前から境内と唱えて保有している広範な地域中祭典法用に必要な場所を区画して新境内と定め、その余の地域を上地処分(官有地とすること)にすると言う趣旨である。故に、この点に関する控訴人の主張も採用するに由なきものである。

(ロ)  実測面積は、前記一の(二)、(イ)、(5)において認定したとおりであるが、≪証拠省略≫に照らして明らかなごとく、登記簿上の地目が当初から現在に至るまで宅地と山林である本件のような場合には、実測面積と登記簿上の面積とは比較対照して、係争地の所有権を確定する資料とすることは、特段の事情が認められない限り、妥当なものとは言えないのである。けだし、福島県は概ね明治一〇年頃に県内の土地測量を終了しているのであるが、その測量はその頃全国に亘って行われていた土地測量と同様に、その主たる目的が地租税を課することにあったから、勢い担税効率の高い耕地(田、畑)宅地に重点が置かれ、効率の低い山林、原野は等閑視されていたものであり、その測量方法も前者については十字法、三斜法、或いは、分見法を用いてかなり綿密に測量されたのに対し、後者については「耕地丈量(測量)ノ手続ニ拠ル」べきものとされてはいたが、その実情は踏査によって測量され、所によっては踏査も行われなかったことは衆知の事実であるから(山林、原野に対する測量が粗雑であったことは、前示同局明治一一年二月一八日番外達「山林、原野改租ノ儀耕宅地竣成ニ引続調査着手中ニ有之処曠漠タル山野耕宅同様ノ手続ヲ以調査候テハ不容易手数ヲ要シ候ニ付各地事情ヲ斟酌シ可成丈繁冗ヲ去リ手数ヲ減シ簡易ノ手続ヲ以調査可致此旨相違候事」に照らしても、十分に窺い知られるところである)、本件山林が本件宅地と同じように綿密に測量されているものと認めるに足りる証拠のない本件においては、実測面積と登記簿上の面積との対比をもって係争地所有権の帰趨を断定するわけにはいかないものである。従って、この点に関する控訴人の主張は採用することができない。

寧ろ、右説示のごとく、宅地の登記簿上の面積が概ね実測にもとづいて登載されたものであることと、前掲地積鑑定の結果(第二実測図参照)を併せ考えれば、本件宅地の範囲は前示図面表示の(チ)、(リ)、(ヌ)、(ル)、(オ)、(カ)の各点を順次直線で結んだ線以東の平坦地域をもって相当とし、その線以西の地域は本件山林に属するものと認めるのが相当である。

(三)  係争地の樹木について、

村小社明細調書に愛宕神社の境内樹木として松目通り尺回以上九本、杉目通り尺回以上八本、雑木目通り尺回以上一本と記載されていることは当事者間に争いがなく、≪証拠省略≫に照らすと、現に境内地に生立する赤松一本と前示図面表示の(ト)点に生立する赤松一本との樹齢が比較的近似していることが認められるけれども、控訴人の全立証に照らしても、右明細調書記載の限定された境内樹木が旧境内の何処に生立していたのか明らかでなく、特に、(ト)点に生立する松、(ワ)点に生立する樽がそれぞれ右の境内樹木に該当するものか否かを知るに由なきものであるから、境内地外に生立する松の樹齢が境内地に生立する松の樹齢に近似しているとの一事をもって、係争地を控訴人所有の本件宅地の一部と断定することはできない。故に、この点に関する控訴人の主張は採用することができない。

寧ろ、前記一の(二)、(イ)、(4)において認定したごとく、前示図面表示の(ヌ)、(ル)の各点に杉立木があり、(オ)点に樹種不詳の伐根が存し、そして、≪証拠省略≫に徴すると、現在の昭忠碑の西側、(ヌ)、(ル)の各点を結んだ線上に曽つて夫婦松が生立していたことが認められるところであるから、彼此併せ考えれば、両地は(ヌ)、(ル)、(オ)の各点を順次直線で結んだ線上に生立する樹木をもって境界としていたものと認めるのが相当であり、また、≪証拠省略≫を総合すると、前示図面表示の(ワ)点に生立する樽は係争地の北側とそれに隣接する八〇番の一山林との境界木として、(ト)点に生立する松は係争地の南側とそれに隣接する七六番の二山林との境界木として、いずれも被控訴人方において温存してきた同人所有の立木であることが認められる。

(四)  係争地の占有、管理状況について、

係争地のうち平坦地部分に対する占有、管理については後記三において判断することとし、ここでは斜面地域の占有、管理について検討してみる。

控訴人は、寄贈されて以来本件宅地の管理を御代田立組青年会に委してきた、と主張しているところ、≪証拠省略≫に徴すると、青年会は例年の祭礼時に裏参道の両側の草を刈る程度のことしか行っていなかったことが認められるから、これをもって斜面地域を管理していたものとは認めがたい。ほかに控訴人の全立証に照らしても、青年会が斜面地域を管理していたものと認めるに足りる証拠はない。尤も、≪証拠省略≫を総合すると、小手川村は大正二年春愛宕神社と本件宅地の寄贈を受けたのを機に、境内に桜を植えて公園にする意図のもとに、青年会に委嘱して表参道の石段両側と境内地に桜の苗木七〇本余りを植えたほか、周囲の斜面にも二〇本ばかり苗木を植えたことが認められるが、同時に、その手入もせず放置していたため、いつの間にか殆んどが枯死してしまったことも認められるので、後記(本項末尾)認定の被控訴人方の斜面地域に対する管理状況と対比して、控訴人が斜面地域を占有、管理していたものと認めることはできない。

なお、斜面地域の東北側に裏参道(巾員約一五センチ)が設けられていることは前記一の(二)、(イ)、(2)において認定したとおりであるが、≪証拠省略≫を総合すると、裏参道は御代田立組青年会が昭和四年ないし同六年の間に完成したものであるが、控訴人所有地(八〇番の一山林)から境内まで裏参道を敷くためには係争地を経なければならなかったため、その頃青年会において当時本件山林の所有者であった被控訴人の先代六郎兵衛から係争地の一部を無償で借受けて裏参道を完成し、爾来今日に至るまで右敷地を無償で借受けてきたことが認められる。

ところで、≪証拠省略≫を総合すると、被控訴人方では先祖代々概ね一五年ないし一六年に一度の割合で斜面地域に生立する立木を伐採してはその跡地に植林し、これを繰返えしてきたのであるが、本件紛争の発生に至るまで、曽つて一度もそのために何人からも文句、苦情を受けたことのないことが認められる。

(五)  係争地の所有権確認の協定について、

控訴人は、昭和三五年五月四日当事者双方立会のうえ、本件宅地と本件山林との境界を明らかにするため、前示図面表示の(イ)、(ロ)、(ハ)、(ニ)、(ホ)、(ヘ)の各点に丸太杭を打った、と主張しているのに対し、被控訴人はこれを明らかに争わないので、右の事実を自白したものとみなす。ところで、控訴人は、右の杭打は当事者間における係争地の所有権確認の協定にもとづいてなされたものであると主張し、被控訴人はこれを否認しているので、協定の成否について検討してみる。≪証拠省略≫中には、右の杭打は本件宅地と本件山林との境界を明確にするために、被控訴人の納得のもとに円満裡に遂行されたものであり、その際、被控訴人は係争地内の立木伐採の非を認めて陳謝した旨の記載及び証言があるが、≪証拠省略≫を総合すると、月舘町議会は、被控訴人が控訴人の主張する両地間の境界を認めようとしなかったので、昭和三五年五月四日午前協議会を開催した結果、両地の境界を明確にするために杭打することに決定し、同日午后、被控訴人及び訴外菅野理藤を係争地に呼出し、控訴人側は町会議員一名を除くその余の議員全員及び町役場職員数名が現地に鑑み、双方が係争地に参集した際(被控訴人の父六郎兵衛も参加)、本件宅地の寄贈者由次郎の子訴外菅野理藤が、両地の境界線は前示図面表示の(イ)ないし(ト)を順次直線で結んだ線である旨を指示したのに対し、被控訴人は境界線は境内地にある旨を主張したが、控訴人の容れるところとならず、町役場の職員が菅野理藤の指示した線に所携の丸太杭を打込むに至ったこと、その際、被控訴人が陳謝の意を表したのは、杭打の地点が両地の境界線であり、係争地が控訴人所有の本件宅地に属するものとすれば、係争地内の立木を伐採したのは自己の過失であるから陳謝すると言うにあったこと、そして、その後間もなく杭打に立会った町会議員阿部謙一が、更に、その後の同年九月下旬に同じく杭打に立会った町会議長斎藤豊太郎が、いずれも被控訴人宅を訪れて係争地を控訴人に寄付して貰い度き旨を申入れていることが認められるところであるから、右の杭打が被控訴人の納得のもとに円満裡に遂行された旨の前記供述及び証言はたやすく信用することのできないものであり、ほかに控訴人の全立証に照らしても、被控訴人が係争地を控訴人の所有と認める旨の協定を締結したものと認めるに足りる証拠がないので、控訴人のこの点に関する主張は採用できない。

因みに、≪証拠省略≫中には、被控訴人の父六郎兵衛が曽つて月舘町議会の経済委員長に就任中、本件紛争の発生以前の昭和三一年頃偶々係争地に赴いた際、訴外森芳吉(町会議員)に対し、係争地内の三、四ヶ所において太さ三ミリ位の雑木を高さ一メートル位の箇所で折って本件宅地と本件山林との境界を指示したことがあり、今にして思えば、その指示した線が前示図面表示の(イ)ないし(ト)の各点を結んだ線に該当する旨の証言があるので、六郎兵衛が係争地内において折木して境界を示したことは肯認するにかたくないが、その指示した線が果して(イ)ないし(ト)の各点を結んだ線か否かは甚だ疑わしいのみならず、仮りに、六郎兵衛が右証言のとおり指示したものとしても、それは当事者にあらざる訴外人間の対談にすぎないから、これをもって当事者間に所有権確認の協定が成立したものとは言えないことは勿論である。

叙上説示のような次第で、係争地を控訴人所有の本件宅地の一部と認めるに由なく、却って、それは被控訴人所有の本件山林の一部と認めるのを相当とする。

三、取得時効の成否、

係争地のうち、斜面地域を控訴人が占有、管理していたものと認めがたいことは前記二の(四)において認定したとおりであるから、斜面地域につき取得時効が完成するいわれがない。けれども、≪証拠省略≫を総合すると、控訴人の前身たる小手川村は、本件宅地の寄贈を受けた大正二年三月一〇日当日から係争地の平坦地、即ち、前示図面表示の(リ)、(ヌ)、(ル)、(オ)、(カ)、(ヨ)、(タ)、(リ)の各点を順次直線で結んだ線内の地域を本件宅地の一部に属するものと信じて占有を始め、爾来愛宕神社及び境内地の管理を御代田立組青年会に一任し、昭和三年一月一日町制施行により月舘町(控訴人)と改まった後も、控訴人において右地域の占有を承継して継続し、従前どおり神社、境内地の管理を右青年会に一任してきたものであり、青年会は管理を委かされて以来、時折社殿及び境内地を清掃するのほか、境内地を祭典に使用することは固より、町民の踊りその他の娯楽の場所へ提供する等して今日まで右地域を支配し、管理してきたことが認められ(る。)≪証拠判断省略≫そして、前記一の(一)、(ニ)、一の(二)、(ロ)に認定した事実と≪証拠省略≫を併せ考えれば、本件宅地はもと凸凹が著しい台地であったが、明治四三年頃整地され、かつ、別紙図面(リ)、(ヌ)、(ル)、(オ)、(カ)の各点を順次直線で結んだ線と、(リ)、(タ)、(ヨ)、(カ)を順次直線で結んだ線との間を盛土してほぼ現境内地に近い程度に造地したうえ、昭忠碑を現地点に移し、社殿と観音堂を東方から現在の場所に遷座し、以来(リ)、(ヌ)、(ル)、(オ)、(カ)、(ヨ)、(タ)、(リ)の各点を順次直線で結んだ境内の地域は、その東側の本件宅地と一体をなして愛宕神社の境内となり控訴人は大正二年三月一〇日このような現況の境内地を本件宅地と信じて占有を始めたものであることが認められるから、平坦地の占有に当り小手川村には過失がなかったものと看ることができる。この点につき、被控訴人は、(1)係争地は従前より松、杉等の古木により境界が明確にされており、(2)社殿を移動させる際、後日の紛争を避けるため、杉の伐根をもって境界を定めたのであるから、(3)係争地が被控訴人の所有に属することは公知の事実であり、従って、控訴人の占有が善意、無過失と言うことはあり得ない、と主張しているのであるが、(1)については、前記二の(五)において説示したごとく、被控訴人の父六郎兵衛でさえ境界線を誤って指示している始末であるから、境界が明確であったものとは言いがたく、(2)については、被控訴人の全立証に照らしても、これを認めるに足りる証拠がなく、(3)については、寧ろ、多くの人々は段境をもって境界と憶測していたこと前記二の(一)において述べたとおりであるから、被控訴人の右主張は認めるに由なきものである。これを要するに、控訴人は大正二年三月一〇日以降今日まで民法第一六二条第二項所定の要件を具備して平坦地を占有していたことに帰着するところ、前掲≪証拠省略≫に照らすと、被控訴人が本件山林につき昭和二六年一二月一五日贈与を原因として所有権取得登記を経由していることが明らかであるから、登記経由の日から一〇年を経過した昭和三六年一二月一五日控訴人は被控訴人に対抗することのできる平坦地所有権を時効に因り取得したものと言うべきである。

以上のような次第で、控訴人の本訴請求を一部認容し、爾余を失当として棄却した原判決は相当であり、本件控訴及び附帯控訴はいずれも理由がないので棄却する。

よって、民事訴訟法第三八四条、第九五条、第八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 田中隆 裁判官 牧野進 井田友吉)

〈以下省略〉

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